大判例

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最高裁判所第三小法廷 平成5年(オ)609号 判決

上告人

甲野昭弘

甲野道夫

甲野豊子

右三名代理人弁護士

神矢三郎

被上告人

甲野優子

右代理人弁護士

荒木重典

被拘束者

甲野陽子

甲野愛子

右両名代理人弁護士

辻晶子

主文

原判決を破棄する。

本件を神戸地方裁判所に差し戻す

理由

上告代理人神矢三郎の上告理由について

一原審の確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

1  上告人甲野昭弘(拘束者)と被上告人(請求者)は昭和六三年二月一七日に婚姻し、同人らの間には同年七月一七日被拘束者甲野陽子が、平成元年七月一一日被拘束者甲野愛子が出生した。右上告人・被上告人夫婦は、平成二年に県営住宅(被上告人肩書住所地)に転居し同所で生活していたが、夫婦関係は次第に円満を欠くようになり、上告人昭弘は平成四年八月一二日、被拘束者らを連れて岡山県の伯母の家に墓参に行き、帰途そのまま、被拘束者らと共に上告人昭弘の実家である上告人甲野道夫(拘束者、上告人昭弘の父)宅で生活するようになった。

被上告人は、平成四年九月一日、その母と共に上告人道夫宅に赴いて被拘束者らの引渡しを求めたが、これを拒否されたため被拘束者らを連れ出したところ、追いかけてきた上告人道夫及び同甲野豊子(拘束者、上告人昭弘の母)と路上で被拘束者らの奪い合いとなり、結局、被拘束者らは右上告人らによって上告人道夫宅に連れ戻された。

被上告人は、平成四年九月末ころ、神戸家庭裁判所に対して上告人昭弘との離婚を求める調停を申し立てたが、親権者の決定等について協議が整わず、右調停は不調に終わった。

2  上告人らの被拘束者らに対する監護状況及び上告人側の事情

被拘束者らの日常の世話は主に上告人豊子がしている。上告人道夫宅(上告人ら肩書住所地)は平屋で、三畳、四畳、六畳の三部屋のほか、台所、風呂等の設備がある。その近くには神社の広い境内があり、被拘束者らは外で近所の子供らと遊ぶことも多く、健康状態は良好である。被拘束者らは、両親の微妙な関係を理解しているらしく、上告人らの面前で被上告人のことを口にすることはない。

上告人昭弘は、なるべく午後六時には帰宅するようにして被拘束者らとの接触を努め、被拘束者らと一緒に夕食をとるようにするなどしている。上告人らは、愛情ある態度で被拘束者らに接しており、今後も被拘束者らを養育することを望んでいる。

上告人昭弘、同道夫は、上告人昭弘の伯父(上告人道夫の兄)が経営する甲野設備工業所に勤務して配管の仕事に従事し、上告人昭弘は約四〇万円、同道夫は約三〇万円の月収を得ている。なお、上告人昭弘の伯父には子供がいないので、将来は上告人昭弘が伯父の右事業を継ぐ可能性がある。

3  被上告人側の事情

被上告人が居住する前記県営住宅(約八〇平方メートル)は上告人昭弘名義で賃借しているが、離婚した場合でも、被上告人に居住が許可される見通しである。被上告人の両親は、右県営住宅から徒歩五分くらいの所に被上告人の兄と共に居住しているが、両親の住宅は二DKの広さであるため、被上告人は実家に戻ることを考えていない。

被上告人は、平成四年一〇月から近くの外食店でアルバイトをしている。時給七五〇円で、月収は一〇万ないし一二万円程度になるが、生活費に三、四万円不足するので、不足分は被上告人の両親が援助している。

被上告人の父(五八歳)は、鉄工所に勤務して月額約四〇万円の給与を受けているところ、定年(六〇歳)後も嘱託としてその勤務を継続することを考えている。被上告人の母は、三日に一回の割合でホテルの受付係として勤務し、約一六万円の月収を得ている。

被拘束者らを引き取った場合、被上告人は、被拘束者らが幼稚園に通うようになるまでは育児に専念し、被上告人の両親は、その間の生活費を援助及びその他の協力をすることを約束している。

二原審は、被拘束者らのように三、四歳の幼児は、母親がその監護・養育をする適格性、育児能力等に著しく欠けるなど特段の事情がない限り、父親よりも母親の下で監護・養育されるのが適切であり、子の福祉に適うものとする前提に立った上で、前記事実関係の下において、(1) 被拘束者らに対する愛情、監護意欲、居住環境の点で被上告人と上告人らとの間に大差は認められないが、上告人昭弘は仕事のため夜間及び休日しか被拘束者らと接触する時間がないのに対し、被上告人は被拘束者らが幼稚園に通うようになるまで育児に専念する考えを持っていることからすれば、被拘束者らは、被上告人の下で監護・養育される方がその福祉に適する、(2) 経済的な面で被上告人の自活能力は十分でないが、被上告人の両親が援助を約束していることからすれば、上告人側と比べて幾分劣るとはいえさしたる違いはないとし、本件においては、被拘束者らを被上告人の下で養育することが被拘束者らの福祉に適うものと考えられるから、本件拘束(上告人らが被拘束者らを監護・養育していることをいう、以下同じ)には顕著な違法性があるといわざるを得ないと判断して、被上告人の本件人身保護請求を認容した。

なお、原審は、被上告人はアルコール漬けの状態で被拘束者らを養育するのに適していない旨の上告人らの主張に対し、確かに、被上告人は本件拘束に至るまで幾分飲酒の機会、量とも多かったが、そのため被拘束者らの養育に支障を来す状態に至っているとは認められず、また、被拘束者らを引き取ることになれば、自戒してその監護・養育に当たるのを期待することができるので、被上告人が被拘束人らを監護・養育するのを不適当とする特段のの事情があるとはいえない旨判示している。

三しかしながら、本件拘束に顕著な違法性があるものとした原審の右判断は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。

1  夫婦の一方(請求者)が他方(拘束者)に対し、人身保護法に基づき、共同親権に服する幼児の引渡しを請求した場合には、夫婦のいずれに監護させるのが子の幸福に適するかを主眼として子に対する拘束状態の当不当を定め、その請求の許否を決すべきである(最高裁昭和四二年(オ)第一四五五号同四三年七月四日第一小法廷判決・民集二二巻七号一四四一頁)。そして、この場合において、拘束者による幼児に対する監護・拘束が権限なしにされていることが顕著である(人身保護規則四条参照)ということができるためには、右幼児が拘束者の監護の下に置かれるよりも、請求者に監護されることが子の幸福に適することが明白であることを要するもの、いいかえれば、拘束者が右幼児を監護することが子の幸福に反することが明白であることを要するものというべきである(前記判決参照)。けだし、夫婦がその間の子である幼児に対して共同で親権を行使している場合には、夫婦の一方による右幼児に対する監護は、親権に基づくものとして、特段の事情がない限り、適法というべきであるから、右監護・拘束が人身保護規則四条にいう顕著な違法性があるというためには、右監護が子の幸福に反することが明白であることを要するものといわなければならないからである。

2  これを本件についてみるのに、原審の確定した事実関係によれば、被拘束者らに対する愛情、監護意欲及び居住環境の点において被上告人と上告人らとの間には大差がなく、経済的な面では被上告人は自活能力が十分でなく上告人らに比べて幾分劣る、というのである。そうだとすると、前示したところに照らせば、本件においては、被拘束者らが上告人らの監護の下に置かれるよりも、被上告人に監護されることがその幸福に適することが明白であるということはできない。換言すれば、上告人らが被拘束者らを監護することがその幸福に反することが明白であるということはできないのである。結局、原審は、右に判示した点を十分に認識して検討することなく、単に被拘束者らのように三、四歳の幼児にとっては父親よりも母親の下で監護・養育されるのが適切であるということから、本件拘束に顕著な違法性があるとしたものであって、右判断には人身保護法二条、人身保護規則四条の解釈適用を誤った違法があり、右違法が判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。

四以上によれば、論旨は右の趣旨をいうものとして理由があり、原判決は破棄を免れず、前記認定事実を前提とする限り、被上告人の本件請求はこれを失当とすべきところ、本件については、幼児である被拘束者らの法廷への出頭を確保する必要があり、この点をも考慮すると、前記説示するところに従い、原審において改めて審理判断させるのを相当と認め、これを原審に差し戻すこととする。

よって、人身保護規則四六条、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官可部恒雄、同園部逸夫の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官可部恒雄の補足意見は、次のとおりである。

一  人身保護法の母国であるイギリスにおいて、またこれを継受したアメリカにおいて、父母の間で幼児の監護権が争われた場合に、判例は、父母の何れに監護させるのが子にとって真の幸福となるかという観点から監護権の帰属を決定してきた、とされる。監護権を決定するについては、正しく正当な判断基準とすべきであろう。

これに対し、実定法としての人身保護法及び人身保護規則を有するわが国において、共に親権者である夫婦(父母)の一方が他方のそれを排除して幼児を監護している場合に、その監護(拘束)が人身保護法二条にいう「法律上正当な手続によらない」ものであるか否かを、右の観点から決するのは、文理に副わない憾みを免れない。

しかし、判例を振り返ってみると、最高裁は当初からこれを肯定していることを知ることができる。昭和二四年一月一八日第二小法廷判決がそれである。この判決は、原審が人身保護法の適用につき、「法律上正当な手続によらないで」といえるか否かの判断を、「その拘束が……実質的に不当であるか否か」を考量して決すべきものとしたのを維持した上、妻が幼児を「かりに暴力で奪ったという事実があったとしても、今日母の膝下に平穏に養育せられている状態が……子供のために、むしろ、幸福であるとしたならば、その暴力行為に対する刑事上の問題はともあれ、人身保護法の適用の問題としてはことさらに、現在の状態をもって、不法の拘束なりとし子供を母のもとから取上げて、強いて父のところへ返さなければならないということはない」(したがって人身保護請求は棄却すべきである)としている(最高裁昭和二三年(オ)第一三〇号前同日判決・民集三巻一号一〇頁)。

二  人身保護法に関する判例形成の草創期からこのような態度を示した最高裁が、この後どのような見解を打ち出すに至ったか、大法廷判例によって見ることにしよう。わが国における人身保護の制度が英米の法制に由来することは周知のとおりであるが、その運用にあたっては、実定法規としての成文の文理、特に人身保護法二条、人身保護規則四条の規定のそれを離れて立論することはできない。制度の趣旨・目的またこれら規定の文理につき、大法廷判例は如何なる見解を示しているであろうか。

大法廷判例は三つある。昭和二八年(ク)第五五号同二九年四月二六日決定・民集八巻四号八四八頁、昭和三〇年(オ)第八一号同年九月二八日判決・民集九巻一〇号一四五三頁及び昭和三二年(オ)第二二七号同三三年五月二八日判決・民集一二巻八号一二二四頁がそれであるが、最後の昭和三三年大法廷判決は、従前の最高裁の先例をいわば小法廷判例をも含めて集大成したものということができ、以後、関係法規の解釈適用につき準拠すべき先例としての大法廷判例は存在しない。そこで、やや長文にわたるが、その判示するところを、以下に分節して引用することとする。

三  昭和三三年大法廷判決の判示するところは、次のとおりである。

1  「およそ法律上正当な手続によらないで身体の自由を拘束されている者について、人身保護法によって救済を請求することができるのは、その拘束又は拘束に関する裁判若しくは処分が権限なしになされ又は法令の定める方式若しくは手続に著しく違反していることが顕著な場合に限られている(人身保護規則四条本文)。即ち人身保護法による救済の請求については、拘束又は拘束に関する裁判等の無権限になされたこと又は方式若くは手続が著しく法令に違反すること及びこれらの事実は顕著でなければならぬことの諸制約が存在している。」

「そしてこれらの制約は、人身保護法の目的とするところが、司法裁判による被拘束者の自由の回復が迅速且つ容易に実現されなければならぬことに存することからして理解できるところである。従って人身保護法による救済は請求の方式、管轄裁判所、上訴期間、事件の優先処理等手続の面において民事刑事等の他の救済手続とは異なって、簡易迅速なことを特色としている。とくにこの手続において、事実の立証に証明を要せず疎明を以て足るものとしているのは、この特色の最も著しいあらわれと認められるのである。」

2  「要するに人身保護の制度は事実及び法律の問題に深く立ち入って審理するところの、民事又は刑事の裁判とは異った非常応急的な特別の救済方法である(法一条、規則四条但書、昭和……二九年四月二六日大法廷決定……参照)。その請求は訴の提起に代わるべきものではなく、又事実問題或は法律問題に関する裁判の誤謬を是正する上訴に準ずべき性質のものでもないのである。」

昭和三三年大法廷判決は、制度の趣旨を以上のとおり理解すべきものとし、当該事案の実質を、幼児の養育者であった請求者(注、幼児の亡母と内縁関係にあった者)と現にその幼児を監護する拘束者たる祖父母との間の、幼児引渡しの問題すなわち監護権の所在の問題に帰着するものと約言したうえ、次のとおり判示した。

3  「元来人身保護の制度の趣旨とするところは無権限又は違法な物理的拘束から被拘束者を釈放することにあるから、かかる問題を人身保護事件として取扱うことには全然疑義の余地がないわけではない。しかしながら幼児なるが故にこの制度の保護の範囲外にあるという理由は存しない。又この制度が今日その適用範囲を拡張し、幼児引渡に及ぼされるにいたっていることは、内外の学説判例に徴して明かである。さらにわが人身保護規則(三七条)も法がこれを認めていることを前提とするものと解し得ないことはない。そうして幼児引渡の請求についても規則四条の制約が適用されることは当然である。」

4  「本件の場合に自由の拘束が存しないと断じ得ないことは、上告人主張のとおりである。けだし幼児監護の場合において監護という事柄の性質からしてつねにある程度の拘束が存在するものと認められるからである。しかし、本件の場合においては、拘束者等が祖父祖母或は後見人であることは当事者間に争がなく、また、原判決によれば、『被拘束者が拘束者等によって現に権限なしにされ、あるいは法令の定める方式若くは手続に著しく違反していることが顕著である拘束を受け、あるいは、その自由を実質的に不当に奪われていると認むべき何らの疎明資料もない』というのであって、その判断は結局において正当と認められるから、本件拘束が冒頭記載の人身保護請求に必要な無権限又は法令違反のものであることの顕著性を否定するに十分である。従って本件の請求はすでにその点で理由がない。かりに請求者において幼児の引渡を請求する何等かの理由が存するとしても、それは別個の手続において主張されるべきであり、人身保護請求の方途によるべきものではない。」

四  以上に引用した昭和三三年大法廷判決によれば、本件の如き別居中の夫婦間における、幼児に対する監護を巡る人身保護請求については、どのような考察が必要とされるであろうか。

1  幼児に対する監護と「拘束」について

右大法廷判決は、当該事案にみられるような幼児に対する監護権の所在の問題を、人身保護事件として取り扱うことには全然疑義の余地がないわけではないとしながら、幼児なるが故にこの制度の保護の範囲外にあるという理由は存しないとし、また、幼児を監護する拘束者がその祖父(後見人)及び祖母であった当該事案においても、幼児について自由の拘束が存しないとは断じ得ない理由として「幼児監護の場合において監護という事柄の性質からしてつねにある程度の拘束が存在する」ことを挙げている。

幼児が略取誘拐された事案の如きものを想定すれば、「幼児なるが故にこの制度の保護の範囲外にあるという理由は存しない」のはむしろ自明の理というべく、また、この場合、幼児が仮に誘拐者に懐いていたとしても、この監護をもって幼児に対する拘束と解する妨げとはならないであろう。

しかしながら、すでに別居に至ってはいるがなお婚姻継続中の夫婦間における監護については、事情は全く異なることが指摘されなければならない。たとい別居中であるにせよ、夫(父)又は妻(母)は、いずれも幼児に対する親権者であることに変わりはなく、夫婦の一方が(他方と緊張関係にあるにせよ)その親権に基づいて幼児を監護している場合に、その監護を目して人身保護法または同規則にいう「拘束」に当たるとすることは、その監護が幼児に対する虐待等の非難を受ける余地のない、その意味で通常の状態にあるものである限り、元来、制度の趣旨に副うものとはいい難い側面があろう(親権に基づく幼児の監護については、もともと「権限」の有無を論ずる余地はない筈のものである)。

かかる事案において、安易に人身保護請求を容認することは、もとより当を得ないものというほかなく、ここにおいて、前記大法廷判決にいう「被拘束者が拘束者等によって現に権限なしにされ……ていることが顕著である拘束を受け」ているか否かの検討が、特段の意義を有することとなるのである。

2  拘束の違法性が顕著であることの制約について

前記大法廷判決は、「人身保護法による救済の請求については、拘束又は拘束に関する裁判等の無権限になされたこと又は方式若くは手続が著しく法令に違反すること及びこれらの事実は顕著でなければならぬことの諸制約が存在して」おり(人身保護規則四条本文)、「幼児引渡の請求についても規則四条の制約が適用されることは当然である」とする。

この点について、右大法廷判決後の先例は、夫婦の一方が他方に対し、人身保護法に基づき、共同親権に服する幼児の引渡しを請求した場合には、「夫婦のいずれに監護せしめるのが子の幸福に適するかを主眼として」子に対する拘束状態の当不当を定め、その請求の許否を決すべきである、とした(最高裁昭和四二年(オ)第一四五五同四三年七月四日第一小法廷判決・民集二二巻七号一四四一頁)が、右第一小法廷判決は、「人身保護法による救済の請求については、人身保護規則四条本文に定める」として、昭和三三年大法廷判決を引用した上、夫婦の一方の「監護の下におかれるよりも、夫婦の他の一方に監護されることが子の幸福を図ること明白であれば、これをもって、右幼児に対する拘束が権限なしになされていることが顕著であるというを妨げない」とした。

その判示するところは、かかる事案において幼児に対する拘束の違法性が顕著であるといい得るためには、請求者(甲)に比し、拘束者(乙)が幼児を監護することが子の幸福に反することが明白であることを要する旨をいうに帰するであろう。拘束の違法性が顕著であることの制約(規則四条本文)につき、累次の大法廷判例が再三にわたって確認した判旨に副うものであり、この点が明確に認識されれば、実務上の適切な指針として機能し得たであろうと考えられる。

しかしながら、右第一小法廷判決については、別居中の「夫婦のいずれに監護せしめるのが子の幸福に適するかを主眼として」人身保護請求の許否を決すべきであるとの論点のみが強調され、拘束の違法性が顕著であること(請求者に比し、拘束者による幼児の監護がその幸福に反することが明白であること)の要件について右判決の示唆したところは、実務上の注目を惹くことなく推移したのである。

3  拘束者の下における被拘束者らの日常について

本件において、幼児が親権者である父(夫)及び祖父母の下で生活していた状態を目して、人身保護規則四条にいう「拘束が……その権限なしにされ……ていることが顕著である場合」に当たるか否かを、端的に物語る資料がある。被拘束者らの生活状況についての国選代理人の報告書がそれである。報告書は、次のような叙述で始められている。

「被拘束者らが生活している家屋は……で……の設備がある。遊び場は、近くに稲荷信者の広い境内があり、友達にも恵まれているそうである。訪問時被拘束者陽子は、戸外に居り、客であると確認すると大きな声で『こんにちは』と迎えてくれた。戸を開けると被拘束者愛子が居り、姉の様子を真似るように『こんにちは』と挨拶し、明るく元気に生活しているように見受けられた。」

報告書は、本件における拘束者である幼児らの父昭弘及び祖父母の生活状況、これら拘束者の下における被拘束者らの生活状況を述べた後、次のような言葉で結ばれている。

「拘束者甲野豊子の話によると、被拘束者らは自分達に気を遣っているのか、請求者甲野優子の話は一切したことはないということであった。当職も、被拘束者らに母親の話をすることは、避けた。

帰途につくと、被拘束者陽子が一人で家の門口まて出てきて『さよなら、さよなら』と両手を振っていつまでも見送ってくれた。」

右にみるような、親権者(父)昭弘及び祖父母の下における被拘束者らの正常にして平穏な日常を目して、果たして何びとが、これをも人身保護法二条にいう「拘束」、同規則四条にいう「拘束が……その権限なしにされ……ていることが顕著な場合」に当たると考えるであろうか。現時点において、本件記録に徴する限り、「請求者に比し、拘束者が幼児を監護することが子の幸福に反することが明白である」との要件が疎明を欠くことは、異論のないところであろう。

五  最後に言及を要するのは、昭和五五年法律第五一号による家事審判法の一部改正についてである。右改正により執行力を有する審判前の保全処分の制度が新設され(家事審判法一五条の三)、これを承けて家事審判規則五二条の二は、子の監護者の指定その他子の監護に関する審判の申立てがあった場合に、家庭裁判所は、申立てにより必要な保全処分を命ずることができる旨を明定した。この保全処分が審判前における子の引渡しを含むことは、同規則五三条の規定に徴しても疑問の余地がない。

本件にみられるような共に親権を有する別居中の夫婦(幼児の父母)の間における監護権を巡る紛争は、本来、家庭裁判所の専属的守備範囲に属し、家事審判の制度、家庭裁判所の人的・物的の機構・設備は、このような問題の調査・審判のためにこそ存在するのである。しかるに、幼児の安危に関りがなく、その監護・保育に格別火急の問題の存しない本件の如き場合に、昭和五五年改正による審判前の保全処分の活用(注)を差し置いて、「請求の方式、管轄裁判所、上訴期間、事件の優先処理等手続の面において民事刑事等の他の救済手続とは異って、簡易迅速なことを特色とし」「非常応急的な特別の救済方法である」人身保護法による救済を必要とする理由は、とうてい見出し難いものといわなければならない。

注、昭和五五年法律第五一号による家事審判法の一部改正は、実務担当者の要望を実現したもので、当時の執務資料も、「子の監護をめぐる紛争の処理は科学的な調査機構を有する家庭裁判所の審判手続により行うことが望ましく、この度、本案審判の先取りとして子の引渡しの仮処分を命ずることが可能となったことから、この種の問題の解決に相当の威力を発揮するものと期待される」としている(最高裁事務総局「改正民法及び家事審判法規に関する執務資料」家庭裁判資料一二一号(昭和五六)八六頁)。

このような審判ないし審判前の仮処分は、正しく家庭裁判所の表芸ともいうべきものであり、制度改正にもかかわらず、なおこれが活用されることなく、地方裁判所による人身保護請求が頻用されるとすれば、一面その安易な運用につき反省を要するとともに、他面、家庭裁判所の存在理由にかかわる底の問題として認識されることを要するものと私は考える。

裁判官園部逸夫は、裁判官可部恒雄の補足意見に同調する。

(裁判長裁判官可部恒雄 裁判官園部逸夫 裁判官佐藤庄市郎 裁判官大野正男 裁判官千種秀夫)

上告代理人神矢三郎の上告理由

一 原判決が上告人ら(拘束者ら)の主張を排斥したのは被上告人(請求者)において被拘束者らを監護、養育するについて不適当であるとする特段の事情を否定したからであるが、原判決には右「特段の事情」という不確定概念の解釈適用を誤った違法がある。

原判決は「被拘束者らのように三、四才の幼児にとっては、母親において、監護、養育する適格性、育児能力等に著しく欠ける等特段の事情がない限り、父親よりも母親の下で監護、養育されるのが適切であり、子の福祉に適うものとされている。」(一六丁裏一二行目〜一七丁表二行目)、更に「…被拘束者らに対する愛情、監護意欲、居住環境の点では、請求者も拘束者らも大差は認められないが、父親である拘束者昭弘は仕事のため夜間及び休日しか被拘束者らと接触する時間がないのに対して、母親である請求者は被拘束者らが幼稚園に行くまで仕事をせず、育児に専念する考えをもっていることからすれば、請求者の下で被拘束者らが監護、養育される方がその福祉に適する。なお、現在、拘束者豊子が被拘束者らの世話に当っているが、通常、幼児の成長過程において母親の愛情を必要とすることは論をまたない。また、経済的な面では、請求者は自活能力が十分ではないが、請求者の両親が請求者を全面的に援助することを約束していることからすれば、この点において拘束者ら側と比べて幾分劣るとはいえ遜色はないものと考えられる。」(一七丁表三行目〜同丁裏二行目)とした上で、「本件においては、被拘束者らを母親である請求者の下で養育することが子である被拘束者らの福祉に適うものと考えられ、結局、本件拘束には顕著な違法性があるといわざるをえない。」(一七丁裏三行目〜六行目)と判示している。

二 しかし、被上告人(請求者)に被拘束者らを監護、養育する適格性、育児能力等に著しく欠ける等特段の事情がなかったであろうか。右「特段の事情」があったことは明らかである。以下に列挙する。

1 被上告人は被拘束者らを連れて実家や友人宅へ行って夜遅くまで帰ってこなかったり、時には友人宅で外泊したりした。その上、被拘束者らの面前で飲酒し、週日にも拘らず、訪問先の迷惑を顧みないのが常であった。

そして、被上告人は屡々午後一〇時過ぎ友人宅へ電話し、あるいは、友人から電話がかかったため、上告人昭弘の安眠を妨害したのは勿論、被拘束者らの安眠も妨害し肉体的・精神的な悪影響を及ぼした。

2 被上告人は就寝前の歯磨きを怠ったため、被拘束者らもこれに倣い、そのため被拘束者らは虫歯だらけになった。上告人昭弘が午後一〇時就寝前、被拘束者らと一緒に歯磨きをするが、その後、被上告人は被拘束者らと自宅内で飲食したり、被拘束者らを連れ出して飲食したりして、そのまま就寝するため、上告人昭弘の努力は水泡に帰した。平成四年八月一三日から同五年三月二一日まで、上告人らにおいて被拘束者らの躾に留意し、そのため、被拘束者らの健康状態(食欲・便通・血色)は著しく向上した。平成五年一月二九日、被拘束者ら国選代理人が拘束者ら宅を訪問した際、被拘束者らは大きな声で「こんにちわ」と言って迎え、そして、被拘束者陽子は家の門口まで出て「さようなら、さようなら」と両手を振っていつまでも見送った。上告人らの被拘束者らに対する躾のよさがうかがわれる。

3 被上告人は掃除嫌いなため部屋中が汚く、かつ、食器類を丁寧に洗わないので、それらはいつもヌルヌルの状態であった。上告人昭弘が止むを得ず掃除・食器洗いをすることが屡々あった。哺乳瓶も十分に洗浄されておらず、ミルクの滓が付着している状態で、被拘束者らに手料理を味わわせることもなかった。被上告人の家事育児能力は一般水準より遥かに下であった。

4 上告人昭弘と被上告人との婚姻関係破綻の端緒は、平成三年九月頃、被不上告人が上告人昭弘に対し「好きな人ができたから離婚して欲しい。」と申入れてきたことにある。当時、被拘束者らは三才、二才であったから、右発言は幼児の母親として無思慮・軽薄の誹を免れない。育児適格に欠けると断定せざるをえない。平成五年三月二二日判決言渡後、裁判所職員の間に坐っていた被拘束者らは被上告人およびその母(原審証人乙野テル子)が近づいてくるのに怯えた。そして、法廷から廊下、エレベーター、廊下そして駐車場へ裁判所職員の誘導で移動する間、「おとうちゃん、おとうちゃん」と大声で泣き叫び続けた。人身保護請求事件にありがちな光景というには余にも異常であった。被上告人の監護、養育の適格性、育児能力に強い疑問が残った。

5 要するに、上告人昭弘が早寝早起き(午後一〇時就寝、午前六時起床)の所謂朝型人間であるのに対し、被上告人は宵っ張り朝寝坊の所謂夜型人間であった。被上告人の習癖が掌を返すように改善されるとは到底考えられない。西洋の諺に"Custom is another nature"(習慣はもう一つの天性である)、東洋の諺に「習い性となる」とある。子供は朝型人間に養育される方が夜型人間に養育されるより幸福であることは自明の理である。

三 原判決は「請求者は…被拘束者らを引取ることになれば自戒してその監護、養育に当ることが期待できるので、請求者に被拘束者らを監護、養育するについて不適当であるとする特段の事情があるとは言えない。」(一七丁裏一二行目〜一八丁表一行目)と判示する。

しかし、右期待は希望的観測に過ぎない。被上告人の宵っ張り朝寝坊および飲酒の習癖は約五年前、結婚当時からのもので、一朝一夕に改めることは至難のわざであり、被上告人において被拘束者らを監護、養育するについて不適当であるとする「特段の事情」を肯定せざるをえない。しかるに、原判決は三、四才の幼児にとっては父親より母親の下で監護、養育されるのが適切であり、子の福祉に適うとする一般論に拘泥し、右「特段の事情」の解釈適用を誤っている。よって、原判決の法令違背は判決に影響を及ぼすこと極めて明かであるから、原判決は破毀を免れない。

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